緑オリーブ法律事務所ブログ

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ちょっと耳(目?)を疑うようなやりとりから。
国会では今、「戦争か平和か」をめぐって、首を傾げざるをえないような攻防が交わされています。

些か旧聞に属しますが、今年の4月1日、社民党副党首の福島瑞穂参院議員が、参院予算委員会で与党の平和安全法制=安全保障関連法案を「戦争法案」だと批判したのに対し、同月17日、自民党が議事録からの削除修正を求めました。これは、言論の府である国会での表現の自由を揺るがす大問題です。結局、削除修正要求は28日になって取り下げられました。

続いて5月26日の関連法案審議入り初日には、衆院本会議で自民党の稲田朋美政調会長による代表質問での「今般の平和安全法制に対して、戦争法案であるとの根拠のないレッテル張りがなされております。」との誘い水に、安倍首相が「したがって、戦争法案という批判は、全く根拠のない、無責任かつ典型的なレッテル張りであり、恥ずかしいと思います。」(第189国会本会議第28号)と応じました。

思うに、政府が提出した法案が平和法案の美名に恥じないのか、はたまた戦争法案の悪名を冠されるべきかは、その後の国会審議を通じて明らかになることです。すなわち、法案審議が本格化していない審議初日においては、その法案が「平和」を志向するのか、はたまた「戦争」を志向するのかという双方の評価自体が、まだお互い「レッテル」の域を出ないのは不可避であるところ、 安倍首相は“こちらが出した法案を額面通りに受け取らずに批判する輩はレッテル貼りを事とする連中だ”という内容のレッテルを新たに貼り返すという、いわば“レッテル貼り返し”を試みたわけです。しかしそのような批判の仕方では、相手の方法への批判が自分にも跳ね返ってきてしまうのだから、結局相手を批判することはできないはずです。

実際、遡れば昨年7月14日に、衆院予算委員会での民主党海江田党首への答弁で、安倍首相は以下のように答えていたのです。「相手にレッテルを、私がレッテルを張ったんだったら私も謝りますが、海江田さんもレッテルを張ったんだったら、それはやはり取り消していただきたいと思いますよ。それは、お互いにレッテルを張り合うという不毛な、海江田さんがまずレッテルを張ったから、では、私もレッテルを張らせていただいたわけでありまして、それはお互いに、レッテル張りの議論ではなくて、レッテルではなくて中身の議論をするべきなんだろうな、私はこのように思うわけでありまして」(第186国会予算委員会第18号)。このやりとりからは、安倍首相が言葉の上では相手のレッテル貼りを批判しつつも、実際には“やられたらやり返す”という規範で振る舞っていることがわかります。

 

もう一つ、我が目を疑った事例をご紹介します。
安倍政権は6月2日の閣議で、「ポツダム宣言は当然読んでいる」という内容の答弁書238(衆議院)を閣議決定しました。これは、維新の党の初鹿明博議員による「安倍総理が党首討論においてポツダム宣言を読んでいないと発言したことに関する質問主意書」に対する回答です。きっかけは5月20日、共産党の志位和夫党首との党首討論において、安倍首相がポツダム宣言を「つまびらかには読んでいない」と返答したことでした。“戦後レジームからの脱却”を旗印にしてきた当の安倍首相が、戦後レジームの根幹ともいうべきポツダム宣言を読んでいないとは!と話題になった案件です(ちなみにポツダム宣言は僅か13箇条、字数にして1400字程度の短い文書です)。

この質問主意書の中で初鹿議員は三つのことを聞いています。一つ目は〈『つまびらかには読んでいない』とは、一度も読んだことがないのか、それとも読んだけれど記憶に残っていないという意味か〉、三つ目は〈ポツダム宣言に書かれている連合国側の認識―「日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出た」当時の日本の指導者は「永久に除去されなければならない」という認識―と、安倍首相の認識は同じなのか異なるのか〉という内容でした(二つ目は略)。
これに対して閣議決定された答弁書では、一つ目の質問については「安倍内閣総理大臣はポツダム宣言を当然読んでいる」が、事前の発言通告がなかったため同宣言を手元に有しておらず、具体的な文言については「つまびらかでない」という趣旨の発言をした、のだそうです。
それに比して三つ目の質問については、「我が国はポツダム宣言を受諾して降伏したものである」の一文のみ、棒を飲んだような回答です。しかしこの一文は周知の歴史的事実を述べただけであり、初鹿議員の質問(首相の主観)については答えていません。

実は、初鹿質問主意書のきっかけとなった党首討論での志位質問も、この3つ目の論点である首相の歴史認識を質したものでした。そしてその時も、安倍首相は歴史的事実だけを述べて、自己の歴史認識についてはひた隠しに語らなかったのです。
既読未読を検証しようのない自己申告については雄弁な首相が、自己の抱く歴史認識については木で鼻をくくったような答弁で問題をすり替えるという落差が顕著です。こういう姿勢を毎日新聞は「安倍語」と名づけました(2015.6.5東京夕刊)。

 

そもそも私たちは、たとえば政策(法案)、党派(組織)、政治家個人といった、それぞれ次元が異なる指標のうちの、何を参照基準にして、政治的な支持不支持を決定しているのでしょうか。
もちろん、審議中の法律案が違憲か合憲かという点は、最大の勝負どころといってよいでしょう。そして、安倍政権が言うところの平和安全法制は、憲法学者の間では違憲だという評価が圧倒的です。たとえば朝日の調査では、憲法学習の際の基本書である『憲法判例百選(第6版)』執筆者210人のうちで回答を寄せた122人のうち104人が「違憲」であり、「合憲」はわずか2人でした(朝日新聞7月11日付)。

他方、国会の場における議論はどのように進められているのか―狭義の法律分野だけではなく広く政治の分野にもおさおさ怠ることなく目配りしなければ、その法案の本当の狙いを看過することになる、という自戒を込めて紹介しました。(亀井千恵子)

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