緑オリーブ法律事務所ブログ

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 3年ぶりに名古屋大学法科大学院で公法の非常勤講師として、講義をしてきました。


 今年の私の担当講義のテーマは「プライバシー権」。私も弁護団員に加わっている「マイナンバー違憲訴訟」を題材にして、お話ししてきました。


 プライバシー権が司法試験の論文試験に出るとすれば、私が受験生だった15~20年前は、小説の題材や週刊誌の記事として個人の私生活が暴露されるという、私事をみだりに公開されない権利としてのプライバシー権と表現の自由の対立をどう調整するか、という問題だったように思います。
 この頃でも、すでにプライバシー権を自己情報コントロール権ないし情報プライバシー権と捉える見解は有力に主張されていましたが(佐藤幸治・京都大学教授(当時))、この見解が真正面から問われることはほとんどなかったように思います。


 時は流れ、今日、プライバシー権を自己情報コントロール権と捉える見解が通説と言ってよい状況です(判例は必ずしもそうではありませんが。)。
 それどころか、15~20年前とは比べものにならない高度情報化社会において、膨大な量のデータの収集・管理・利用等がコンピュータにより瞬時に処理されること、その結果、従来はさほど重要性を持たなかったプライバシー外延情報でも紐付け管理されることにより重要な意味を持つことなどから、自己情報コントロール権論が再検討されるに至っています。
 例えば、プライバシー権侵害を「激痛」と「鈍痛」に分けて検討する立場(山本龍彦・慶應義塾大学教授)。
「激痛」:私生活上の秘密の公開・暴露による羞恥心や屈辱感等の強く激しい精神的苦痛
「鈍痛」:データバンク社会の下での、一旦データベースに組み込まれた情報がその後どう扱われるかの不可視性・捕捉不可能性によって生ずる長期的な不安
 そして、この「鈍痛」の影響は、案外大きなものかもしれません。つまり、レッテル貼りが一生付いて回る可能性があるわけで、それを避けるために、無意識のうちに無難な選択をし続ける…政治的な選択であれば、少数派との接触を避け、多数派を選択し続けることにもなるのです(これを「同調効果」といいます。毛利 透・京都大学教授)。
 このように見てくると、実はプライバシー権が、表現の自由が確保され、適切に行使されるための前提ということになります。
 もし今、プライバシー権が司法試験の論文試験に出るとなると、このような表現の自由の基礎としてのプライバシー権という理解が必要になるように思います。(浜島将周)

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